カラスの勝手が、なんか悲しく響く
志村が死んだ。コロナで死んだ。
荒井注の代わりに、志村が初めてザ・ドリフターズの「8時だヨ!全員集合」に出た日の番組を憶えている。
志村の登場により、ドリフターズは若返った。
やがて、志村が「東村山音頭」で個性を発揮し始める。
番組の面白さが増し、「8時だヨ!全員集合」は国民的な番組となった。
それより以前は、クレージーキャッツが面白かった。「シャボン玉ホリデー」に代表される、音楽的な要素のあるお洒落な面白さは、どこかカッコ良かった。
そのクレージーに次いで面白いと思ったのが、コント55号である。コント漫才で、これも、初めて見たときに「なんだ、これは!」って思った。
中央にマイクがあるのだが、彼らは中央に立たない。舞台の上で縦横無尽に動き回り、欽ちゃん走りや飛び蹴り的なこともしていた。二郎さんは欽ちゃんより年上だったので、動くたびに、「はーはー、ぜーぜー」と喘いでいた。それも面白かった。
欽ちゃんのこの動きによって「ピンマイク」が誕生したとか言われているが、納得できる。
このコント55号の番組で記憶にあるのは、「裏番組をぶっ飛ばせ!」の中の野球拳コーナーだ。公開番組で、二郎さんと女性が野球拳の踊りと共にじゃんけんをし、負けたら、一枚ずつ脱いでいくもの(脱いだものはチャリティオークション)。ブラジャーやパンティーの下着姿(タオルで身体を隠し、全部脱ぎましたというポーズもあった)や水着姿になったタレントは何人かいた。
十代の頃だったから女性が脱ぐたびに興奮をした。
こういう番組を、祖父母や両親と共に日常の中で普通に視ていた。良い時代だった。
この無敵のコント55号(フジ系列の「世界は笑う」)を、視聴率で抜いていったのが、ザ・ドリフターズの「8時だヨ!全員集合」である。(この抜くという図式はテレビ全盛時代ならではのもので、高視聴率が続いていた「木枯し紋次郎」を必殺シリーズの先駆けとなる「仕掛人・藤枝梅安」が視聴率で抜いていった醍醐味に通じる)
しかし、ザ・ドリフターズも、1980年代に入り、裏番組に抜かれていくのである。
土曜夜8時、僕の番組チョイスはTBS系からフジ系になった。
「俺たちひょうきん族」。ビートたけし、さんま、紳助、鶴太郎、山田邦子・・・。彼らはドリフターズよりも、若く、新しかった。
ただ、年齢が若いというのであれば、ドリフターズも彼らに勝てたであろうが、彼らは新しかった。
その後に登場した、とんねるずも、ダウンタウンも、新しかった。(タモリは異端だった)
新しければ、時代を変えることができるし、先頭に立つことができる。
しかし、残念なことに、今のテレビを見ると、時代をひっさげる「笑い」の芸能史は終わってしまったように思う。
仲間内の失笑芸、面白くもない一発芸、才能のない小粒芸人の氾濫・・・
時代の先頭に、新しい「笑いの王様」がいない時代は、非常につまらない。
芸人も高齢化社会なのか、「王様」は、まだ、80年代に活躍した人が君臨している。
志村けんが、登場した1970年代。クレイジーキャッツ、コント55号、ドリフターズがいた。関西では桂三枝と、やすしきよしが若者の番組で大受けしていた。(桂三枝の「ヤングOU!OH!」を見ていたら、小林繁の投球フォームを真似する若手芸人が登場した。芸は未熟だったが、醸す雰囲気が最初から面白かった。明石家さんまという名前は、どうだろうとは思ったが・・・)
タモリは福岡の喫茶店の雇われマスターで、ビートたけしは浅草のストリップ劇場にいた。高校生だった石橋と木梨は個別に「TVジョッキー」の素人奇人変人コーナーに登場し、竹中直人の後に続いた。
そういう時代に、志村は登場したのだ。子供達も、みんなテレビが大好きだった。
今後、しばらく、テレビやネット動画で志村けん追悼の名場面集の番組があるだろう。
ぜひ、笑って、笑って、故人を偲びたいと思う。
カ~ラ~ス なぜ鳴くの~ カラスの勝手でしょぉ~
なんか、悲しく、響く。
合掌