アラセブ男

社会の話、テレビの話、野球の話、昭和の話とか。

テレビ局なのに、そんなに罰則や強制を望んで良いのか

コロナの「緊急事態宣言」を早く出せと、テレビのキャスターも、コメンテーターも、タレントも、街頭の人も騒いでいる。
北海道の鈴木知事は2月末に、自ら「緊急事態宣言」を出し、道民に自粛を呼びかけた。その効果もあってか、爆発的な感染者の増加は目下のところ免れている。
その2月末の時点で、人口の多い東京がこんなに少ないのはおかしいと指摘されていたが、東京の小池知事はコロナの件でなかなかマスコミの前に現れなかった。小池知事が登場したのは五輪の延期が決まってからである。そのころから東京の感染者も増え始め、北海道の感染者数をあっという間に抜き去った。いまや日本のコロナは、東京のコロナになった感じさえする。マスコミの報道もそうで、地方のコロナは扱われなくなりつつある。

小池知事はいかにもお役所言葉の「3密を守ろう」と言い出し(3密ってなんだ?近い距離で話すな。換気の悪いところへ行くな。人が集まるところへ行くな。のストレートな表現の方がわかりやすいと思うのだが)、都民や近県から集まって来る者に自粛を呼びかけた。

しかし、自粛には従わず、「おれには関係ないから」とか、「わたしはうつらないと思う」とか言って、街頭インタビューに答える愚かなものたちがいる。中でも驚いたのは、「罰を与えるとか、強制とかだったら従う」という声だ。

これは、街ゆく若者だけではない。

テレビの情報番組を見ていると、「緊急事態宣言」を早く出せという意見が多くなってきた。これに対し、安倍政権・自民党寄りのコメンテーターが「緊急事態宣言を出しても強制力がないので、自粛の要請になってしまう。出しても、そう効果がないんです」と言う。すると、局アナやキャスターが「罰則を与えるべきだ」と言い出した。言うことを聞かない者には罰を与えろと言うのだ。

マスコミに携わっている人が、こう簡単に「罰を与えろ、強制にしろ」と言い始めたことに、私は怖さを感じる。テレビを視聴している人々に、「罰や強制」に対する共感・同感を流布することになりかねない。コメンテーターが自分の意見として発言するならよいが、番組を進行するキャスターやテレビ局のアナウンサーは言ってはいけない言葉であると思う。安倍政権と、その得体のしれないバックにいる者たちの、望み通りの思惑に加担しているように思えてならない。

安倍政権は、今、「罰則・強制」を望むそれらの声を拒否している。(まあ、自由を許すというより補償問題や経済への影響のことを考えてのことだとは思うが)

今は国家的な危機である。「戦争」「戦時下」と例える、海外の政治家も多い。

国家の危機の前に個人の尊厳や自由がある程度奪われるのは致し方ない。コロナの感染を防ぐためには自由の制限が必要になってくるだろう。しかし、政権側ではなく、マスコミや国民側から、「自粛の自由はいりません。罰を与え強制にしてください」というのは、どうも愚かしく奇妙に思えてならないのである。

では、どうするか。それは、日本のリーダーである安倍首相のスピーチ力にかかっている。いまこの時こそが己の評価を上げる見せどころ、聞かせどころなのである。政治のリーダーが日本人ひとりひとりの琴線にふれるような言葉を発信できれば、より多くの愚かなものたちを従わせることができるだろう。「罰則も、強制も」必要ない。今こそ、政治家としてのリーダーシップが必要なのである。しかし、「皆さん、一緒に戦いましょう。コロナとの戦いに、勝ちましょう!」と、書き言葉じゃなく話し言葉で国民に熱く喚起してくればよいのだが、阿部ちゃんはすぐ原稿を読んじゃうからな・・・。


日本人は、幸か不幸か、「災害」に鍛えられている。パニックにはそう簡単に陥らない。礼節・礼儀・忠義があり、人を助け、リーダーや社会に従う心を持っている。私は、いざという時の、日本人を信じたい。

そもそも、テレビが面白ければ、人々はこの時期にそう出歩かない。「罰則だ」「強制だ」などと声高に叫ばず、テレビ局には若者が出歩くのを止めるような、コロナをぶっ飛ばす面白い番組をつくってほしいものである。